TS戒
シナイ山の頂上の祭壇の前に腰掛けて、あなたは一人悩んでいました。
この山のふもとには、あなたが引き連れてきたヘブライの民たちが溢れています。
あなたは彼らを神との約束の地へ導くことが自分の使命なのだ――と、不眠不休で働き、やっとこの地にたどり着いたのですが……
「いったいどうすればよいのだ……」
今、あなたは自らの行いに深く悩んでいました。
「モーゼ様、また近くの部族と争いです」
「女の事か……」
「は、はい」
新たな争いを知らせに来た弟子のヨハネに、あなたは吐き捨てるようにそう答えました。
あなたは胸まで伸びた髭をなで、そして深いため息をつきました。……次々と起こる問題に疲れ果てて。
「……お前に怒っているのではないのだ、ヨハネよ。自分の不甲斐なさに怒っているのだ」
「モーゼ様……」
そうです、あなたは自分のやってきたことに疑念を覚えていました。
あの王の下では、いつかヘブライの民は滅ぼされ、この世から消えてしまう……そう思ったあなたはヘブライの民を引き連れて、彼の地エジプトを脱出しました。
しかしその時、約束の地にたどり着けずにヘブライの民の血が絶えてしまうことをおそれたあなたは、若い娘たちを残し、男たちとその妻だけを連れてエジプトを離れたのです。
予想通り、神との約束の地へと向かう旅は、安楽なものではありませんでした。エジプトからの追っ手や、通りかかった土地の民との些細なことからの諍い、灼熱の砂漠や、もろく崩れやすい山道などでの不慮の事故など――
そしていつしか非力な女たちから、ヘブライの民はその数を減らしていきました……
苦難の末にこの地にたどり着いたときには、ヘブライの女たちはほとんど残っていませんでした。
男たちは自らの血を絶やさぬためと称して、近くの他民族の部落を襲い、部落の女たちを連れ去り、暴行する者まで現れました。
あなたは彼らの行いを悔い改めさせようと、全能の神から「十の戒め」を記した石板を頂いたことにして皆にそれを示しましたが、その効果は全くありませんでした。
男たちは自らの行いを改めることはなく……このままでは、この地のヘブライの民は周りの民族の恨みを買い、やがて滅ぼされてしまうでしょう。
あなたはこの難局に悩み苦しんでいました。
「おじさん、何を悩んでいるのですか?」
「……おじさん?」
あなたは、ふと声のしたほうを見ました。
「君は誰だ? 大人でも登るのに難儀をするこの山に、どうやって……?」
レースの衣を身にまとった、おかっぱ頭のかわいらしい少女が祭壇の上に立っていました。
「……わたしは、こういうものです」
少女はそこから、文字が書かれたパピルスをあなたのほうに差し出しました。
あなたは立ち上がり、そのパピルスを受け取りました。
「あなたの心と身体のお悩みを解決します。真っ白な……カヨ……ン?」
そのパピルスにはヘブライ語でそう書かれていました。
最後の文字はかすれて読みにくかったのですが、ほぼ間違いはないでしょう。そこに書かれた “真っ白な” とは、純粋な穢れのない思いを持つものという意味なのですが……同時に
“神よりの使者” という意味もありました。
「カヨン(?)ちゃんは……神様のお使いなのか?」
「ええ、そんなものです。……おじさんが悩んでいるみたいだったから、その悩みを解決してあげようと思って」
「解決してあげるといわれても、おじさんの悩みはそう簡単なものではないのだよ……全知全能の神でしか、おじさんの悩みは解決できないのだよ」
「あら、わたしも見習いとはいっても天使の一人です。どんな悩みでも解決してみせますわ」
「天使? きみが??」
「ええ……これを見てください」
そう言うと、少女はレースの下から四枚の白く美しい羽を広げてみせました。広げられた四枚の白い羽は、頭上にある太陽の光を浴びて光り輝きました。あなたはその羽のあまりの美しさに心を許し、彼女に悩みを話すことにしました。
「わたしは、エジプトの王の行いから、やがて我々が滅ぼされると感じ、一族を連れて旅に出た。だが、あまりにも過酷な旅だったので、一族の者たちは一人減り、二人減りしていき……やっとこの地に着いた時には、女性がほとんどいなくなってしまった。その為、子孫を残すことに不安を感じた男たちが乱暴を働き、近くの部落を襲うようになったのだ。そこでわたしは――」
あなたの話があまりにも長かったので、少女は退屈になって居眠りを始めてしまいました。
「……というわけなのだよ…………って、寝るんじゃないっ!!」
「え? お話終わったの? ……で、どういう悩みなのですか?」
「ふう、お嬢ちゃんには難しすぎたかなぁ……つまり、早い話が女の人が足りないんだよ」
「な〜んだそんなことですか。女の人が足りなくて困っているのですね。……そういう事なら、わたしに任せておいてください。ちゃんと解決してあげますわ」
「……カヨンちゃんが?」
「大丈夫です。それじゃあ、行きます……」
取り取り、付け付け、ミラクルパワーっ!! フルスロットル〜っ!!
「う・・・わ、わあああああぁ〜〜〜っ!!」
「あ、あの……モーゼ様、です……よね?」
あなたは身体をやさしく揺さぶられ、目覚めました。
「う、う〜ん……おお、ヨハネ、いったい何が起こったのだ?」
「モーゼ様ですよね……あの〜、お気を確かに持っていてください……」
弟子のヨハネが自信なさげに問いかけてきました。
「……ん? 何のことだ?」
「ちょっと、深呼吸をしていただけますか?」
「な?」
「いえ、ですから深呼吸を――」
そう言われて、あなたは、わけの分からないまま深呼吸をしました。
するとヨハネは、あなたの右手をつかむと、それをあなたの胸へと持っていきました。
「なんの真似だ……ん? なんだ?? 柔らかいものを触っている感触と、自分の胸を触られている感覚があるぞ? これはいったい??」
あなたは思わず大声で叫びました。
その柔らかいものが、あなた自身の胸だと気づいたとき、あなたは、左手を下へと伸ばしていました。
しかしそこには、あるべきものが……ありませんでした。
「な、なんじゃこりゃっ!? 私のアレはどこへ行ったんだ!? それに、このプニョプニョはいったい……!?!?」
「も、モーゼ様、落ち着いてくださいっ。あなたはあの輝きに飲み込まれて、若い女になってしまったのです。そして、モーゼ様が気を失っておられる間にふもとから知らせがありまして、仲間の男たちの半数が若い女に変じたそうです」
「若い女に? ……私と同じようにか?」
「はい」
あなたは自分に起こったことが、すぐには信じられませんでした。
しかし、ふもとに降りてヨハネの言葉が事実だと知ると、あの少女を皆に探させました。
少女は祭壇の裏側で、可愛い寝息を立てて眠っていました。
「これが……この事が、この幼い少女の行ったことだとすると……これは……この悪魔をこのままにしていては大変なことになる……」
あなたは少女を起こしてすぐに皆を元に戻させようとしましたが、思い直し、仲間の石工に石の柩と石の蓋を作らせ、少女をあのパピルスとともに石の柩の中に入れて封じました。
そして、誰にも見つかることのないある場所に、少女を入れた石の柩を隠し、アダムとイブを楽園から追放させた邪悪にして最高の知恵者であるあの動物に監視させることにしました。
彼らは、この石の柩を持ち出そうとするものに天罰を下すでしょう。
「そう……これでいい。この少女をこのままにしていたら、我が民ばかりではなく、この世の民のすべての男が女に変えられてしまうかもしれない。神は私のこの所業を許してくれるだろうか……もし、この子が言うことが正しく、神の使いだったとしても、私のこの行為を恥じるつもりはない。もし神の意思に反したとしても、私の同胞たちを救うために行なうのだから、その罪は甘んじて受けよう」
あなたはそうつぶやくと、少女を納めた石の柩に蓋をして、封印の呪文を唱えました。
この封印は、決して未来永劫とかれることはないでしょう。
やがて、あなたは優しくたくましいヨハネを夫として、幸せな家庭を築きました。
あなたはついに男に戻ることは叶いませんでしたが、あなたや女になった同胞たちのおかげで、男たちは周りの民族との争いをしなくなり、民は増え、我が国は栄えました。
あの少女は、本当に神よりの使者だったのかもしれません。
我が民は心からあの少女に感謝しなくてはいけないのかもしれません。
あの、「真っ白なカヨン」に……
―― ヨハネ五世これを記す。
後の世の人々によって、あの石柩はこう呼ばれるようになりました。
十戒を納めた柩、「失われたアーク」
と――